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葛城日向(かつらぎ ひなた)はまた溜息を吐いた。
商店街の通りを行く人々は霞んで見えて、白い息と共
に消えていってしまうばかり。 まだみえぬその姿に、さらに重い溜息をもうひとつ。
「おそい………」 電車に乗って行ってしまった傘を恨む彼女に冷たい雨が 追い討ちをかけていた。携帯で連絡をいれたのはずいぶん前なのに、 相手はまったく現れそうにない。三重にも着込んだ洋服が空模様と 相俟って、余計にべったりとした感触を肌に与えていた。
彼女は今、コンビニの前で雨宿りをしているだけなのだが、 先ほどから中の店員がちらちらとこちらの様子を窺ってくる。 そりゃ、コンビニでビニール傘でも買えばいいのだろうけど、無駄な出費はしたくない。 でも昼から何一つ口にしていなかった彼女には、 その隣に並ぶ肉まんのケースの方が大切なようであった。 自動ドアをくぐって、日向はまっさきに“ジューシーな肉まん” と書かれたケースの 前に立つ。意味のない出費の計算など をしながら、応対してきた店員から御希望の品を受け取 って再び外にもどった。 さっそく取り出した肉まんは、手に持つにはちょっぴり熱くて、 それでも紙を剥がしてかぶりつき。まだビニール袋に残る重たさを 楽しみながら、日向は雨の中を歩き出した。
彼が来ないのならば、こっちから迎えに行ってやればいい。 彼のマンションからここまでは一本道なのだから、遭わないことはないはずだ。
……はずだった。 「はぁ、到着しちゃった」 見上げれば『ノエル・ラ・ネージュ』と書かれた プレートとレンガ調の建物。雨空にそびえ立つそれは どことなく圧迫感があるようで、濡れた顔を袖で 拭きながら中へと入っていった。 彼の部屋はマンションの11階にある。 当然、日向はエレベータ乗り場へと向かい、上の階への スイッチを押した。ランプが次第に左へと移って行き、 到着を告げるランプが明滅する。 「あ……………………」 日向とすれ違いざまに大人っぽい女性が降りてきた。 服装も赤を基調としたもので、長い足にハイヒールがよく似合っている。 が、その表情はどこか冷たく、日向を値踏みするように一瞥して歩き去っていった。 「誰、あの人………」 彼女の視線は明らかに日向に対するものが含まれているように思えた。 けど、確証もないし、日向自身そんな人から睨まれるような覚えもない。
彼女の後ろ姿を見送っていた日向だったが、 閉まりかけたエレベーターに慌てて中に飛びこんだのだった。
日向がインターホンを鳴らすと、彼はすぐ出てきた。
大沢健二(おおさわけんじ)、22歳。 同市内の音大に通う好青年(と評判)である。 小さい頃から音楽を習い、最近ではその美貌振りから 公式のファンクラブまで出来たという。
もっとも、日向はまったくそんなことは気にしていないのだが。
その日向はただ黙って相手に不満顔を送り 続けていた。それはもちろん迎えに来てくれな かったことに対してだ。 「ほら、タオル」 でも、受け取らない 「いらないのか?髪の毛、濡れてるぞ」 答えてやんない 「怒ってる……よなぁ」 あたりまえじゃん 「わりぃっ、ほんっとゴメン。どうしても動けなかったから」
「何で迎えに来てくれなかったの!電話したじゃない。理由を話してよ、理由を」
今にも食って掛かりそうな彼女の勢いに押されながらも、 健二も話を切り返す。 「いや、あの時、実は客がいて」 「ふぅ〜ん、女の人?」 一瞬、脳裏にエレベーター前ですれ違った女の人がイメージに浮かんだ。
「なんでそうなるんだよ。その……旅行関係者だよ」
「旅行?」 「この際だ、話しちまおう。今まで黙ってたんだけど、 今度二ヶ月くらいの旅行に出ようと思ってるんだ」 「二ヶ月って、そんな、どこに?」 「それがだな、イタリア」 「二ヶ月も、海外に?!そんなこと、聞いてないわよ!」
「まあ、待て、俺の話を最後まで聞けって。 その旅行なんだけどな………日向、おまえを連れ
て行きたい」 「は?」 「日向にもぜひ、世界を見せたいんだ。宿泊先は俺の知り合いが経営している。 俺は向こうで開かれる音楽祭の特別ゲストとして招かれることになっている」
「それで……?」 「お前にもぜひ来てほしいんだ。 旅行までの期日、その間の日程なんかはすべて組んである。あとはお前次第なんだ」
「えっ? えっ? いきなりそんなこと言われても、分かんないわよ!」
「まだ時間はある。ちょうど3週間後の木曜、あと14日後だ。 それまでに答えを出してくれればいい」 「だって、もう準備出来ちゃってるんでしょ?」
「もちろん都合が悪くなったら、いつだってキャンセルできる。 一応、俺はその音楽祭にはでなきゃならないから」
「で、でも」 「だから無理にとは言ってない」 「健二は、あたしが居たほうがいいの?」 「向こうに行ったら、お前とはしばらく会えない。 お前と一緒にいられる時間がないのは俺としても寂しい」
「…………だったら、行く」 「ありがとう、日向」 「やめてよ、そんな声出したって、あたしは怒ってるんですからね」
「日向」 それでも彼は真面目な顔を崩さない。 両腕を掴まれて、日向は身動きが取れなくなる。 彼が何をしようとしているのか理解したとたん、 身体中に血が駆け巡り、そこに縛り付けられた
ように抵抗が出来なくなった。 彼と視線が交錯する――その時だった。 「ピョコンッ」 「どぅわああああああああああああっっ!!」
健二の大声が部屋に響く。 それを合図にしたように日向は急に呪縛から解放された。
それと共に、彼が驚きで固まっている様子を見て呆然とする。 その原因はどうやら自分の胸元から飛び出している“もの”の せいらしいことに気付いた。 「あ、このまんまじゃ窮屈だよね〜」 自ら上着のボタンをはずしてその物体を下に降ろす。 ふさふさした白い毛に長い耳。四本の足で床を歩き、顔に生えたその髭は。
「ネコぉ?!」 …………に似ていた。微妙に違うのはその長い耳だ。 さらに丸くて短い尻尾など、強いて言えばネコウサギとでも言う風貌をしている。
「うん、来る途中で拾っちゃった」 「拾ったって、ネコだかウサギだか得体の知れない物を…………」
「いいの。飼うことに決めたんだから」 「まさか、うちで飼うのか?」 「ほら、ナオナオ、こっちおいで」 「みゃあ〜」 「ナオナオ?」 「この子の名前。ねっ、ナオナオ」 呼ばれて素直に反応するあたり、ネコウサギ本人も納得しているらしい。
「誰が面倒見るんだよ……」 「もっちろん、健二」 「マジか」 「うん、マジ。だってあたしのアパート、動物ダメだもん」
「…………ひとまず、その濡れた洋服を脱げよ」
もちろん、ナオナオを抱いていた日向の服はグッショリ。 おかげでそのネコウサギはもうだいぶ乾いていた。 「洋服、着替えないと」 「いや、今は着替えなくていい」 「えっ、……………………」 「ネコの面倒を見てやる代償だ」 そんな二人をよそに、ナオナオは大きくあくびをしていた。
「あと一週間後か………」 そうすれば日本を離れ、日向は海外に行かなければならない。 もちろん国外旅行なんてしたこともないし、何をすればいいのか、 まったく見当もつかなかった。 そう、何度も健二に訴えてみたが、その彼は。
「ナオナオ〜」 あんなことを言ってたくせに、飼ってみれば例のネコウサギに構いっきり。 それも日向が焼 いてやった魚を、自分が食べるのは二、三匹。残りはすべて 身をほぐしてやった上、ひざに乗せて食べさせてやる、といった溺愛振りだ。 それに最近、どうも様子がおかしい。 海外のことについて聞いても、あいまいな返事ばかり。
こっちは不安でたまらないのに、いったいなにやってんのよ
と、日向は険悪な顔で睨んでやるのだが、彼が気づく様子はいっこうになかった。
……………実力行使。 「健二、健二」 「ん、なんだ?」 「少しぐらいはこっちの心配もしなさいよーー!!!!」
「んぐぐぐ! むぐ、ぐぅっ」 魚(ししゃも)を三匹いっぺんに口の中に突っ込んでやる。 さらに片手で身体を押さえつけ、 空いた手で口を塞いで、 無理やり中に押し込んでやった。 「ぐ……ごくっ、げほげほっ!」 「ふぅ、ちょっとだけすっきりした」 「いきなりなにすんだよてめぇ!!」 「なによ! さっきからナオナオばっかり可愛がっちゃってさ!」
「なに、ひょっとしてネコにやきもち妬いてるワケ?」
「そんなんじゃないわよ! だって、あたしが話し掛けても 適当な返事しかしてくんないじゃな い!」 「あー、悪かった悪かった。で、いったいなにが訊きたいんだ?」
「もう、やっぱり聞いてない。だって、あと一週間しかないのに何もしなくていいの?」
「なんだ、そのことか」 「なんだって、そんな言い方ないでしょ!」 「だから言ってるじゃねえか、日向次第だって。行きたくなかったらいかないでもいいんだよ」
「なにそれ………健二、本気でそんなこと言ってるの?」
「俺の荷物とかはもう全部向こうに送ってある。 後、持っていくのは他のよけいな荷物だけなんだし」
「……それって…」 まるで、あたしが荷物みたいじゃない…………
「……いいわよ。じゃ、あたし家に戻って荷物をまとめてくるから」
手早く台所を片付けて、エプロンをはずす。
「あ、おい。今日泊まっていくって…」 健二が何か言いたそうだったけど、あたしはかまわず荷物をまとめて出て行った。
玄関の扉を閉めて、溜息を一つ。 ……最近、ため息をつくことが多くなっちゃったなぁ それも、あの猫を飼い始めてから
ほんとうはこんな考え方なんてしたくないんだけど……
やっぱりあたし、やきもち妬いてるのかなぁ?
「休学届……っと」 小走りに歩きながら、鞄の中から書類の束を取り出して中身を確認する。
いまは、えっと……三時十五?! やばっ
あわてて日向が駈け込んでいったのは、『櫻美林総合芸術専門学校』。 絵画はもちろんのこと、CGデザイナーや装飾、写真技術といったものまで 科目が揃っている。日向はこの専門学校で写真家を目指していた。
例の海外旅行のため無断で長期に休むわけにもいかず、 彼女は休学届け(名目上は海外研修)を出すことにしたのである。
「学生生活科」の事務が締め切られるのは午後四時。今日は書類の提出と最終確認のみだ
ったため、案外簡単に解放された。 「あぶな……なんとか間に合ったぁ」 多少乱れた服装を気にしつつ、校舎のエントランスに向かう。 その向こうから逆に派手な服装の人が入ってきた。 相手は日向のことに気付かず通りすぎて行ったが、 彼女はふと立ち止まりその後姿を振り返った。 それはちょうど、あの雨の日、日向を一瞥し 歩き去っていたあの女の後姿と似ている。
日向はやや離れてその後姿を追った。 廊下を曲がり、階段を降りていく。なぜ、あの女を追っているのか、 なぜこんなにも気に掛かるのだろうか……。 そこはさっきまで日向が歩いてきた道と同じ、 その先にあるのもやはり「学生生活科」だった。
「はい…………それでは、よろしくお願いいたします」
まったく同じように事務所から彼女も出て来る。
「あら?」 さすがに彼女もこちらを見つめる視線に気付いたようだ。 慌てて物陰に隠れようとしてもここには隠れるところはない。
「なにか用なの?」 「い、いえ別に……」 「そう。だったらそこどいてくれない? 邪魔なんだけど」
相手のつっけんどんな態度に日向はむっとしたが、 素直に左側に寄ってみせる。 「……あなた、もしかして日向さん?」 すれ違いざまに、彼女が段上から声をかけてきた。
「なんであたしの名前、知ってるんですか?」
「それは健二くんから話はよく聞いているもの。 それに、マンションによく出入りしているでしょ?」
「………………?」 相手の真意をはかりかねて、 日向はこわばった表情のまま黙ってしまう。
「ふぅ〜ん、なるほど。けっこうかわいい妹さんじゃない」
「妹?!」 彼女のきょとんとした表情に、 日向は思わず大声を出してしまったことに気付く。
「この前健二くんに問い詰めたら、本当は自分の妹だったんだっていうから、びっくりしたわよ。 よく女が出入りしていることは前から気付いてたしね。じゃ、お兄さんにヨロシク」
「ちょっとまって!! あなた、いったい誰なの?」
「健二くんからなにも聞いてないの? 私は装飾デザイナー科四年の杉俣 楓(すぎまた
かえで)よ。 でも、これからお兄さんと海外に出掛けることになっているから、多分会うことはないでしょうけど」
「なっ!」 それって どういうこと?! 声が出ないでいる日向を無視して彼女は上の階へと姿を消してしまう。 そして、呪縛から開 放されたように日向は営業を終えようとしていた事務室 に勢い込んで駆け込んだ。 「今のあの人!」 「うわっ、なんだね」 「ついさっきここから出ていった人よ! あの人、何の用事だったの?」
「そういうことには応えられな……」 「どこに行くっていったのよ!! さっさと言いなさい!」
「い、イタリアだ。それで休学届けを出したいって」
凄まじい日向の気迫に身の危険を感じた事務員はどもりながら答えた。 それもそのはず、日向はこうみえても空手の有段資格者なのだ。 すぐさま日向は彼女の跡を追ったが、すでにその姿はどこにもなかった。 どうしようもないやるせなさに襲われて、胸の中には行き場のないわだ
かまりが強く残っていた。 「……………………………………」 静かな時間だけが流れていく。 電灯も消してあり、部屋はわずかな 月光だけに照らされている。 時々、どうしようもない苛立ちに 暴れ出したい衝動にも駆られるが、 ただ、ベッドの中に潜って耐える。 いつもだったら料理をしているはずなのに……いつもならお風呂に入っているはずなのに…… ……いつもなら、“やくそく”なんて破ったことなかったのに…………
何度か健二から催促の電話とeメールが届いていたが、 確認をしただけで取り合う気はまったくなかった。 まだ、状況を整理できたわけではない。 どうしたらいいのか、あれからまだ半日、 あの時間だけが別のもののようでもの すごい違和感に包まれていた。 暗がりの中を液晶表示された時計に目を見やる。
…………………もう十一時か 「…………?」 何かの鳴き声が聞こえた気がした。 息を殺して耳に意識を集中させると、 猫のような鳴き声に何かを引っ掻く音が聞こえる。
窓の方……? そっと床に降り立ち、カーテンをわずかに開けて覗き込む。 窓のすぐ下、月光に照らされるベランダにいたのはあのネコウサギ。 ガラス窓をあけると、すぐにナオナオは飛び込んできた。 何かを催促するように日向の足元をくるくる 走り回ってじゃれついてくる。 「……健二のとこにいたんじゃないの?」
胸元に抱き上げて台所に向かう。 ご飯が食べたい? と、日向が訊くとまるで理解でもしたか
のようにナオナオは鳴き声で応えた。 そういえば、健二の家で全部ご飯を作ってあげていたの は全部日向だった。健二は普段から料理なんてしないし、 外食に頼ってばっかだったし。 冷蔵庫を開けて、中身をあれこれ詮索してみる。 たまごに……シーチキン、みっけ♪ さらに取り出したのはニンジン。 ナオナオはニンジンが大好物らしく、うかつに放置しておいた ニンジンを片っ端から食われてしまったこともある。
「おまたせ……。むこうで一緒に食べよ?」 テーブルの上には豆腐サラダにベーコンエッグと食パン。 傍らには猫飯(日向特製ニンジン入り)。 ナオナオのご飯を作っているうちになんとなく、自分もお腹がすいてきたのだ。 簡単な料理だったため、たいした時間は掛かっていない。
「おいしい?」 日向の問いかけに答えることもなく、ひたすら食べ続けるナオナオ。 なんとなく微笑を浮かべてしまう。まだ豆腐サラダを食べている日向に ナオナオはもっと催促をかけてきた。 しかたないので、食べかけのベーコンエッグを皿に分けてあげる。 こうしていると、不思議に萎えた気分が元気を取り戻していくのが分かった。
ナオナオの体をしばらく洗っていなかったのを思い出して、 そのあとは二人で入浴。こんな夜中に体を洗われた方はたまったものじゃないので、 日向は風呂上りに薬箱を取り出すはめになったが。 一応、ナオナオは男の子だった。 ………………なんでナオナオはここに来てくれたの?
ナオナオの濡れた毛をドライヤーで乾かす。 いまさらになって気付いたが、 ナオナオは日向の家を知らないはずだった。 健二の家から脱け出たことぐらいはあるかもしれないが、 日向の住むアパートに連れてきたことは一度もない。
ナオナオを乾かし終わった日向は化粧台の前に座る。 ゆであがったばかりのつやつやとした肌。 水に濡れて潤いを含んだ長い髪。 でも、鏡に映る自分の顔は……。 いつの間にか、ドライヤーの音は止んでいた。かわりに外から聞こえはじめてきたのは――
――静かな、水のたくさんはじける音。
「雨、降ってきちゃったから、今日はここに泊まっていってね」
『みゃぁ』と、短くひと鳴き。 この家で飼えないこともないが、写真機材など 動物の毛やホコリに弱いものが多かった。 万が一、暴れでもして薬剤などを引っ掻きまわされたら たまったものではない。 この子が飼えないから あたしが健二の家に連れていったのよね
とすると、やっぱり健二の家に一度出向かないと駄目らしい。 あれだけ嫉妬していたというのに、今はこの子のために何とかしてあげたい と思う自分が不思議だった。 それとも、一緒にいたいだけなのかもしれない。
「…………ありがとうね……ナオナオ」 “そっと、後ろから抱きしめられる。”
“みゃぁ……?” “生暖かい雨が降ってくるのを感じてナオナオはその顔を見上げた。”
………………ゲホッ、ごほっ! 自分の咳に驚いて日向は目を覚ました。 意識が戻るまでずいぶんと間をおいてから、ようやく
布団から起き上がる。 …………十時三十分。 ぼやけた視界に映る時計は、無常にも 完璧な遅刻を示していた。 ただ、それを認識しているのか、していないのか、 日向はすぐに床にへたり込んでしまう。 喉のひどい痛みと体全体にのしかかる重いだるさ。 霧に包まれた意識のままで日向はあることに思い至った。 押入れから薬箱を引っ張り出してきて、中から器具を取り出す。
……………………………………………………三十九度八分…………
間違いなく、それは風邪をひいていることを表していた。
あいかわらず外から響いてくるのは雨の音。 昨夜、湿気を嫌う機材のためにエアコンのスイッチを入れっぱなしにしておいたのだが、 それに夜中に風呂に入ったことが祟ったらしい。 どっちみち、この体では学校は休まねばならない。
ナオナオは………………? 体が冷えないように、一緒に布団の中に入ったとこまでは覚えている。 布団の中――ベッドの下――台所――バスルーム――写真現像用の暗室――トイレの中――どこにもいない?
まさか昨日までのことは夢だったとでもいいうのだろうか。 いや、そんなことは有りえない。 テーブルの下には昨日、洗い忘れていた ナオナオのご飯用の食器が残されている。
まさか、ナオナオはこの雨の中 一人で外に出ていってしまった……?!
どうやってナオナオが部屋を出ていったかは分からない。 日向はふらつく足をなんとか抑え、 素早く着替えを済ませると 傘を掴んで家を飛び出していってしまった。
…………可能性があるなら ここぐらいしかない
息を切らしている日向の前にそれはそびえたっていた。 灰色の雨空にあまりにも不釣合いなレンガ調の建物。 来る時は事前に電話を入れるよう言われているが、 玄関の鍵は日向だって持っている。 いつにも増して嫌な圧迫感があるその建物の中へと 日向は入っていった。 走ってきたためにせっかくの傘も甲斐なく 髪はまた濡れてしまっている。エレベーターの昇降
スイッチを押して光が横に移るのを待っていた。
「!!」 そして、ランプが到着を告げると共に降りてきたのは、 やはり、あの女だった。それは、いつかの、あの日と状況が似ている。 ただ、ナオナオがいないこと以外は――
「あら、また来たのね」 やはり、こちらを蔑んだ目で見てくる。 「な、なんで……あなたが健二の家にいるの……ゴホッ」
虚ろな意識でようやく口から出た言葉は掠れていた。
「なんでって……。私がいちゃ悪い? 昨日はアナタが来てくれなかったから、 変わりに泊まりに来て欲しいって、健二くんが言ったの」
昨日 来なかった?…………………………だから かわりに泊まって……?
足元のふらつきは抑え切れず、 なんとか意識を保つのがやっとになっていた。
「それより、アナタ大丈夫? つらそうだけど、お兄さんに電話してあげようか?」
「ふざけないでっ!!」 力の限りを尽くした大声に、相手が一瞬ひるんだ。
「なによ!! 出ていってよここからっ……ゲホッ、ゲホッ!」 のどの痛みに耐え切れず、最後まで言葉にならない。
「どういう意味よそれ」 まるで蛇が睨みつけてくるような視線を日向に送ってくる。
「はぁ、はぁ……あたしは健二の妹なんかじゃないわ。あたしは健二の恋人だもの!!」
「アンタみたいのが健二くんの恋人? なにくだらないこと言ってるのよ」
相手が腕を捕まえてこようとする。 日向はその手を追い払った。 「だったら、健二くんに直接訊いてみればいいじゃない。 “あたしは『妹』だなんてはずがない“ってね」
その言葉に思わず日向は相手の顔の右を叩いた。 相手の顔が怒りに鬼のような形相に変わっている。 すぐさま相手は顔を殴り返してきた。 日向も相手の顔に拳を叩きこむ。 痛みに蹲っていた彼女だったが、日向に鼻血を出されたことを知ると、 今度は取っ組みかかってきた。 「何やってんだよ、おまえら!」 突然、開いた後ろのエレベーターから怒鳴り声が聞こえてくる。
取っ組み合っている二人の間に割って入ってきたのは健二だった。 その後ろにおびえたように立っているのは、ここの管理人。 天井に監視カメラが設置されているところから、日向達が暴
れているのに気付いて、健二に連絡をしたのだろう。
「管理人さん、どうも、あとは俺が話をつけておきますんで――――」
「ゲフッ、ゲホッ、…………健二……いったいどういうこと…?」
「楓さん、大丈夫ですか?」 「大丈夫なわけないわ! この子、いきなり殴りかかってきたのよ」
「ふざけないで! 健二、いったいこの人誰なの?」
「なにばかなことやってんだよ、日向。おまえがやったら相手が怪我して当然だろ」
「健二、何を言って……ゴホッ、ゲフッ、ゴホッ!」
暴れたせいでよけいに苦しくなった息を、深呼吸でなんとかおちつかせる。
「だいたいお前、そんなふらふらでうちに何しに来たんだ? 早く家に帰っていれよ」 ついに体を支えきれなくなった日向は、壁に背を預けて俯いてしまった。 荒い息を吐き出す日向の手は、強く握り締められ震えている。
「…………………ナオナオは?」 「は?」 「昨日……あたしのとこに来たの…こっちに、戻ってきてるんでしょ」
「べつにいいじゃん。自分からいなくなったんだから」
「………………!」 「楓さん、動物苦手だっていうし、しばらく外に放っておいたわけ。 そしたらいつの間にかいないじゃん? さっきも来たらしいけど、追い返したっ……」
言葉が終わらないうちに、日向の右手が動いていた――
「もう、二度とあたしの前に現れないで! イタリアにでもどこにでも行っちゃえばいいのよ! 」
日向は振り返るとそのまま雨の中に飛び出した。 さっきの取っ組み合いで使い物にならなくなってしまた 傘を投げ捨てる。たぶん、今頃あいつらは意識を失った 健二の手当てで慌てているだろう。 そんなことは もう、どうでもいい! 「うあっ!」 金属製の側溝板に足を滑らせ、大きく前に倒れこんだ。 その拍子にポケットにいれておいた鍵が大きく転がりだす。
「こんなものっ……」 擦りむいた手の痛み――健二が渡してくれた鍵――も無視して 強く握り締めたそれを、思いっきり地面へ叩きつけた。
ちゃりん、ちゃりんと転がっていく道の向こうに駅前のコンビニが見えている。
日向は再び立ち上がる。今はただ、どこに向かって――?
あの日 ナオナオを拾ったところ 出会った場所――駅前へ
他にもう考えることもできなくなっていた。 家を出るときからひどかった症状は今や日向の 身体を徹底的に苦しめはじめている。
動作も緩慢なもので一分、一秒がひどく長いように思えてならない。
「ナオナオ………………」 駅の改札口からはまばらに人が出てくるばかり。 しかし、そこにも、どこにもナオナオの姿は見当たらない。
どこか――どこなの、ナオナオ? 「みゃあ〜〜!」 ゆっくりと、後ろを振り返る。 雨の中を、向こうから走ってくる小柄な身体。
膝を突いてその場に座り込む日向の胸へ向かって、 その子は飛びついてくる。 日向の胸に抱かれたナオナオは頭を摺り寄せてもう一度鳴いた。 日向はそれを一生懸命抱きしめる。 だが、次の瞬間、ナオナオは日向の腕を離れて、 雨の中を走っていってしまう。 「ナオ…ナ……オ………」 もう、日向は何もできなくなり、 ただ、道端で小さくうずくまるしかなかった。
「…………みゃあ……」 ――ふしぎとあたたかかった―― 「おーい、まだ起きてないのー?」 ――あめのふるまちでみつけたもの―― 「こらこら、ナオナオくんまでいっしょにねむったらあかんでしょ。 何のために起こしてくるよう頼んだのや」 今まで上を覆っていたものを引っぺがされて、彼女は身じろぎする。
「日向、いいかげん起きてよ。いくら学校休みにしたからって、 限度っていうものがあるじゃない」 ついでにカーテンも全開にされ、まぶしい光の中、彼女はようやく上半身を起こした。
「ん、もぅ……。せっかく気持ちいい夢見てたのに…………ふぁ……」
「気持ちいい夢? なにそれ?」 ――このままよりそっていれば、どこまでもねむってしまえるようなきがした――
「……ん〜っと。忘れたから、顔洗ってくるぅ」
「ちょっと、逃げるつもり? そうはさせないわよ」
「あ、いい匂い〜。朝ご飯、何?」 「何も教えてくれない人には、ご飯なし」 「えーっ、環ちゃんひどい〜。んじゃ、ご飯食べてるときに話すよ…………」
あれから数ヶ月、日向は友人の家に身を寄せていた。 雨の中意識を失った日向はすぐに近くの病院へ運ばれ、 一週間ほど入院する羽目に。 もっとも、高熱でずっと苦しんでいた彼女には、 当時の記憶はほとんど残っていなかった。
医師からは軽度の神経症によるものだろうと診断されたため、 しばらく安全な環境を維持できるよう、環(たまき)が保護者役を買って出てくれたのである。
「みゃお〜〜〜〜ん」 二人で座る、テーブルの下から鳴き声が聞こえてくる。
「あ、ごめん。うち、ナオナオの分まだ出してなかった」
というか、ご飯がもらえなくて、ほんとうに泣いているが。
「ナオナオ、こっちにおいで」 日向が両腕を差し出すと、ナオナオは一目散に駆け上がってきた。 脚の上で、日向から貰ったニンジンスティックを嬉しそうにかじりつく。 ただ、ひとつだけ誰にも分からないことが残っていた。 それは誰が通報したか――誰が助けたかということ。 皆、一番初めに駆けつけた環が通報したと思っていたのだ。 しかし、環も同じように知らせを聞いて現場に駆け付けたのだと言う。 「ほい、できたで〜。日向もねこばっか構っていないで、自分のご飯に専念したら?」
「いま食べてるわよぅ」 口をもごもごさせながら言葉を返す。 といっても、やはり日向はゆっくりとご飯を食べるだけ。
――ひょっとしたら ねこならしっているのかもしれない――
「ね、ナオナオ」 その言葉にナオナオは『みゃぁ』と鳴いた。
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『 小さなぬくもり Another story nosolution |
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